SaaSにおける価格設計やプラン訴求の最適化は、マーケティング成果を左右する重要な要素です。しかし、合理的な説明だけでは顧客の意思決定が進まない場面も多く、そこには「心理」が大きく関係しています。
本記事で取り上げるプロスペクト理論は、ノーベル経済学賞を受賞したダニエル・カーネマン氏とエイモス・トベルスキー氏によって提唱され、人間の意思決定が非合理に左右されるメカニズムを明らかにしたものです。特に、「損失を避けたい」という心理は、訴求コピーや価格表示において大きな影響を及ぼします。
私たちSEデザインは、SaaSをはじめ、IaaS、PaaSなどのクラウドサービスを提供する企業のコンテンツマーケティングを多数支援してきました。
本記事では、プロスペクト理論の基本的な考え方を整理しつつ、それをSaaSビジネスにおける価格設計・訴求コピーの設計にどう応用できるかを、具体例を交えて解説します。
SaaSを扱うマーケターの皆様が、顧客の意思決定をより深く理解し、施策の効果を高めるヒントとなれば幸いです。
プロスペクト理論の基本 ── 損失回避と参照点依存性
プロスペクト理論は、人が、必ずしも従来の合理的なモデルでは説明できない判断を下す傾向があることを示した理論です。1979年に心理学者ダニエル・カーネマン氏とエイモス・トベルスキー氏によって提唱されました。
従来、人は常に合理的に意思決定し行動すると考えられてきましたが、プロスペクト理論はその前提に反して、人間の意思決定には無視できない“非合理性”が存在することを明らかにしました。マーケティングにおいて注目すべき要素は、主に次の2点です。
1. 損失回避(Loss Aversion)
プロスペクト理論における中心的な概念が「損失回避性」です。
人は利益を得ることよりも、損失を避けることに対して強く反応する傾向があります。しかもその反応の強さは、一般的に損失の心理的インパクトは利益の数倍になると言われています。
たとえば、競合他社のサービスから、低価格が売りの自社サービスへの乗り換えを提案する場面を考えてみましょう。
よりも
と伝えたほうが、より強く訴求できる可能性が高くなります。
この違いこそが、損失回避が人の判断に与える影響を如実に示す例です。
2. 参照点依存性(Reference Dependence)
プロスペクト理論では、人は絶対的な価値ではなく、「参照点(基準)」との比較で意思決定を行うとされています。
この参照点は、現在の利用状況や過去の経験、市場の一般的な価格、キャンペーン情報、他者の選択、将来への期待など、多様な要因によって変動します。
たとえば、以下の2つの提示方法を比較してみましょう。
両者とも最終的な価格は同じですが、一般的に多くの顧客はA案の方を魅力的に感じます。これは、A案では「通常価格」が参照点となり、1,000円の“得”があると感じられるのに対し、B案では追加料金が“損”として認識されるためです。
マーケティング施策では、どの情報を参照点として顧客に提示するかによって、意思決定の結果が大きく変わるということを、この理論は示唆しています。
補足:価値関数とリスク選好の非対称性
プロスペクト理論では、人が利得と損失をどのように認知するかを示す「価値関数」という考え方も導入されています。
この関数は、利得に対しては緩やかに満足度が上昇し、損失に対しては急激に不満が増加するという、非対称なカーブを描きます。
また、損失領域では人はリスクを取りやすくなり、利得領域では確実性を重視するという傾向も報告されています。
たとえば、利得の場面を考えてみましょう。「確実に1,000円もらえる」という選択肢と、「50%の確率で2,500円もらえるが、50%の確率で何ももらえない」という選択肢があった場合、多くの人は前者を選ぶとされています。期待値としては後者の方が高い(1,250円)にもかかわらず、「確実な利益」を重視する心理が働くためです。
これは、購買決定の場面における“保証・返金制度”などの設計にも応用可能です。消費者は、不確実な損失を避けるために、多少のコストを払ってでも保証や返金制度を選ぶ傾向があります。
このように、プロスペクト理論は単なる学術的概念ではなく、日々のマーケティング施策や価格設計、コピーライティングに直結する実践的な視点を提供してくれます。
SaaSのマーケティングにおけるプロスペクト理論の活用
プロスペクト理論の考え方を理解した上で、実際にマーケティング施策へと落とし込むには、「損失をどう見せるか」「参照点をどこに置くか」といった情報設計が鍵を握ります。SaaSビジネスにおいては、特に以下の3つのポイントに注目することで、より心理に響くアプローチが可能になります。
ここで言う「損失」とは、単に金銭的な損害を指すだけではありません。人は現状維持バイアスを持っているため、「現状を維持することで失う可能性のあるもの」全般を指し、以下のようなものが含まれます。
金銭的な損失 | 競合サービスより高いコストを払い続ける、不要なコストが発生するなど |
時間的な損失 | 非効率なツールを使い続けることで無駄にする時間、手作業による手間など |
機会損失 | 新しいツールを導入しないことで得られない業務効率化、売上増加の機会など |
機能的な損失 | 最新の機能を利用できないことによる競争力の低下、業務の遅延など |
精神的な損失 | ストレス、不満、不安など、現状維持によって生じるネガティブな感情 |
このように、「損失」を多角的に捉え、マーケティングメッセージに反映させることで、より多くの潜在顧客の心理に響く可能性が高まります。
1. 訴求コピーにおける損失回避の活用
損失を避けたいという心理を刺激する表現は、SaaSのCVR(コンバージョンは率)を高めるうえで非常に効果的です。以下は典型的な表現の対比です。
表現の種類 | コピー例 |
利得訴求 | 「このツールで月5時間の業務時間を削減」 |
損失訴求 |
「このツールを使わないと、月5時間を無駄にし続けることになります」 |
後者は、ユーザーにとっての損失(=今この瞬間も無駄にしている)を具体化し、早期導入への動機付けとして有効です。
SaaS導入の判断においては「今導入しないことで起こり得る機会損失」に焦点を当てた訴求が、見込み顧客の背中を押す要素になります。
2. 価格表示における参照点の設計
価格そのものよりも、「何と比較して高い/安いと感じるか」が購買判断を左右することは、プロスペクト理論の中核的な考え方です。この「参照点」を意図的に設計することで、同じ価格でも印象を大きく変えることができます。
通常価格 → セール価格
「通常価格10,000円 → 今だけ9,000円」と表示することで、1,000円の“得”を際立たせる(参照点=通常価格)。
プラン比較
「プレミアム:15,000円/月」「スタンダード:9,000円/月」と提示し、あえてプレミアムプランを先に表示することで、スタンダードプランの割安感を印象づける(アンカリング効果との併用)。
オプション型 vs 一括型の表示順序
オプションで加算する形式ではなく、「すべて込みで9,000円」と一括で見せた方が“追加コストの痛み”を避けられる場合もある。
3. キャンペーン設計における希少性・期限訴求
プロスペクト理論の「損失回避性」は、キャンペーン訴求にも極めて有効です。
【よく使われる例】
これらの表現は、「得られるはずの利益を逃す可能性」=損失として認識され、即時の行動を促進します。
特に、無料トライアルから有料転換へのクロージング時には、損失回避のメッセージが効果を発揮します。
4. 顧客事例・カスタマーサクセス活用:過去の“損失”に着目した構成
導入事例の構成も、プロスペクト理論を活かして改善できます。成功体験の紹介だけでなく、「導入前にどのような損失があったか」に焦点を当てることで、読者が自社の課題と重ね合わせやすくなります。
【Before-After型の事例構成案】
ここでの“対応遅延”や“受注の取りこぼし”を「損失」として際立たせることがポイントです。
ただし、顧客事例では損失だけでなく、導入後の具体的な成果や、顧客が得られた独自の価値(例:チームの連携強化、顧客満足度の向上、新たなビジネスチャンスの創出など)も示すことで、より多角的な魅力を伝えることができます。
このように、プロスペクト理論の視点をマーケティング施策に取り入れることで、単なる価格や機能の訴求にとどまらない、顧客心理に寄り添った説得力のあるコミュニケーション設計が可能になります。
SaaSビジネスにおけるプロスペクト理論の活用例
プロスペクト理論は、理論として理解するだけでなく、実際のマーケティング施策にどう反映されているかを観察・分析することで、より実践的な学びが得られます。ここでは、SaaS企業が実際に展開しているコピーやページ設計をもとに、「損失回避」や「参照点の設計」がどう活用されているかを見ていきます。
事例1:SaaS型MAツールの訴求コピー
このコピーは、「年間1,200件の獲得」というポジティブな成果を前面に出すのではなく、それを「逃す」「失う」という表現で訴求しています。これは、損失回避性を強く刺激し、行動を促す典型的なアプローチです。
また、「かもしれない」という表現により、完全な断定を避けつつも緊張感を残し、読み手に現状維持のリスクを認識させています。
事例2:料金ページにおける「割引表示」
「通常価格」を明示し、その上で割引額を提示することで、「通常よりもお得である」という印象を強く与えています。これは、参照点依存性を効果的に活用した設計です。
また、年払い契約に割引を設定することで、「今決断しないと割引を逃す」という心理を誘発しています。これも損失を避けたいという動機づけに基づいた訴求であり、単なる金額の提示ではなく、価格の“感じさせ方”に注力している例です。
事例3:機能制限型フリーミアムの移行訴求
無料プラン利用者に対して、「これまで蓄積してきたものが失われる」という明確な損失リスクを提示しています。これは、現状維持に留まることで失うものがあるという、プロスペクト理論の特性を活用した事例です。
特にSaaS型のツールでは、機能制限よりも「データの削除」や「過去の記録の消失」といった損失を意識させる方が、感情的インパクトが大きく、アクションに結びつきやすくなります。
事例4:ユーザー導入事例における「Before」の損失強調
成果の数字だけを提示するのではなく、「導入前の課題」にフォーカスを当てることで、共感と問題意識の共有を促す構成になっています。特に、“このままでは自社も同じ損失を被るかもしれない”という読者の想像を喚起する設計です。
この構成では、課題の深刻さと改善後の差分が明確に提示されており、単なる成功紹介ではなく「変化の必要性」を強調する内容となっています。
事例に共通する設計上の工夫
活用されている理論 | 主な活用ポイント |
損失回避性 | 「逃す」「失う」「削除される」などのワード選定、無料→有料への動機づけ |
参照点依存性 | 通常価格の明示、プラン比較、標準プランと上位プランの配置順 |
プロスペクト理論の応用は、単に心理学的なワードを挿入することではなく、全体の構成設計と論理の組み立てを「顧客の判断軸」に合わせて最適化することにあります。
これにより、サービスの価値をより正確に、かつ心理的な納得感とともに伝えることが可能になります。
プロスペクト理論を活かすための実践チェックリスト
プロスペクト理論の理解を深めた上で重要なのは、それを自社のマーケティング施策にどう落とし込むかです。ここでは、訴求コピー、価格設計、ページ構成、導入事例など、SaaS企業のマーケティング活動において確認すべき観点をチェックリスト形式で整理します。
以下の項目を、自社の現行施策や制作物に当てはめながらご覧いただくことで、改善のヒントを得られるはずです。
1. 訴求コピー・クリエイティブ編
2. 価格表示・プラン設計編
3. 無料トライアル・導入導線編
4. 導入事例・カスタマーサクセス編
5. その他(ページ設計・セールス連携など)
このチェックリストは、単なる理論の確認ではなく、日々のマーケティング運用や制作業務の中で「顧客の判断軸に寄り添えているか」を点検するための実践ツールです。
プロスペクト理論のような行動経済学の知見は、単に理論として理解するだけでなく、ユーザーの意思決定を支援する「設計思想」として業務に取り入れることで、その価値が最大化されます。
プロスペクト理論をマーケティング成果につなげるために
本記事では、行動経済学の中でも特にマーケティング領域との親和性が高いプロスペクト理論に焦点を当て、SaaSビジネスにおける価格設計や訴求コピーへの応用方法を解説しました。
プロスペクト理論は、「損失回避」や「参照点依存性」といった、人間の非合理的な意思決定の傾向を明らかにし、それを戦略的に活用するための指針を与えてくれる理論です。
SaaSのように抽象的な価値を伝える場面では、こうした視点を取り入れることで、ユーザーの判断基準に寄り添ったマーケティングを実現できます。
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